内容紹介
20世紀最大の悲劇のひとつ、ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害。
著者で精神科医・心理学者のヴィクター・フランクルは、強制収容所から奇跡的な生還を果たしました。
この本では、極限状態の収容所の人々、自身の体験から、「生きる意味はあるのか?」という問いにコペルニクス的転回で答えを導きます。
死・絶望と隣り合わせでも、他人を気遣い、数少ない自分のパンを仲間に与える人。
「それでも人生にイエスと言う」と何とか生き抜こうとする人。
幸せになるために生きれているとは到底考えられないような状況下でも「人生の意味は自分で創る」という意志の力で、意味を実現する生き方を提示する本です。
題名 | それでも人生にイエスと言う |
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著者 | ヴィクター・フランクル |
出版社 | 春秋社 |
発行日 | 1993/12/13 |
ページ数 | 218ページ |
言語 | 日本語(原題:ドイツ語『Trotzdem Ja zum Leben sagen』) |
こんな人にオススメ
・「生きる意味ってあるの?」という問いの答えを知りたい人
・思い通りにいかないことも多いけれど、夢、目標に向かって、もっと自分らしい生き方を見つけたい人
・将来が不安、未来が見えなくても、今、人生で本当に大切にすべきことを知りたい人
著者紹介
ヴィクター・フランクル
1905年、ウィーン生まれ。ウィーン大学医学部神経学・精神医学教授。世界27の大学から名誉博士号を授与された。
世界三大心理学者(フロイト、ユング、アドラー)につぐ「第4の巨頭」とされる偉人。
自身のナチス強制収容所での体験について、精神科医としての冷静な視点で出来事を書き綴った『夜と霧』は英語版だけでも900万部発行されている世界的ベストセラー。
毎日の中で「生きる意味」を充実させ、探求するロゴセラピーという心理学を確立。
著書に『夜と霧』(みすず書房)、『制約されざる人間』(春秋社)、『意味への意志』(春秋社)、『時代精神の病理学』(みすず書房)『精神医学的人間像』(みすず書房)などがある。
『それでも人生にイエスと言う』要約
・人間性が全て
この本はもともと、1946年にフランクルが行った演説からできています。
フランクルは「全ては人間性に帰依する」という話から始めます。
富、名声、「こう見られたい」「こう見せたい」というエゴも全てがなくなった時残るのは「人間性」です。
すべては、その人がどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。
仕事で成功した人も優秀な人もお金持ちも、強制収容所に入ったらお金、権力、名声を失い全員が「スープをやる値うちもない」と見なされました。
また、ナチスの時代の人々は収容所に入っていずとも理想を持てず、健康、幸福、虚栄、野望などをなくしました。
その中でも残る「裸の実存」とは一体何か?
「その人そのものがその瞬間、周りの人に与えている影響」のことなのです。
・人生は楽しみのためでも、幸せになるためでもない。
フランクルは人生について、よく言われる2つの考えの誤りを指摘します。
人間は、じっさい楽しみのために生きているのではないし、また、楽しみのために生きてはならない。
「楽しくなければ人生じゃない!」という言葉もありますが、フランクルはこの考えに対してロシアの実験心理学の本から次のように言います。
ふつうの人が、日常生活のなかで、快感よりずっとたくさんの不快感を体験することを実証しました。というわけで、はじめから、楽しみのために生きることはまったく不可能だといえましょう。しかしまた、楽しみのために生きる必要もありません。楽しみのために生きることは、そもそも割に合わないことなのです。
フランクルはさらに、死刑判決を受け、あと数時間後に刑が執行されて死ぬ場合、最後に最高においしい食事をしたとしても無意味だと感じる可能性を示唆します。
ただ、生きる果てには必ず「死」があります。
だとしたら、すべての人の一生も無駄なのか?そんなことはないですよね。
ここから「楽しみがないからといって、生きる意味はなくなりはしない」と彼は結論づけます。
しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。
フランクルはさらに、幸せを追い求めることの誤りも説きます。
しあわせというものは思いがけず手に入るものにすぎず、けっして追い求められないものであるわけですから、しあわせを得ようとすれば、いつも失敗することになるのです。
幸せになりたいと欲することでは幸せは得られず、意味ある生き方をした結果が幸せに帰結するとします。
・大切なのは自分で「生きる意味」を創ること
では何のために生きるのか?ここからこの本の真髄に入ります。
自分の人生には意味がない、人生に期待することはもうなくなったという2人の男女。
しかし、男性には未完の著作があり、女性の帰宅を子どもたちは待っていました。
フランクルはこの体験から、
「私は人生になにを期待できるか」ではなく「人生は私になにを期待しているか」と問う
という考えに至ります。
人生に対して何かを期待する生き方からの転換、フランクル曰くの、コペルニクス的(カント)転換です。
続けて、無期懲役判決を受けた黒人の囚人が、移送中の船で発生した火事で活躍し放免された出来事について話します。
火事の際、彼は手錠を外されて救助作業に加わり、結果10人の命を救い、恩赦で解放されました。
もし、乗船前に囚人に「これから生きる意味はあるか?」と聞いたら首を横にふったかもしれません。
何が自分を待っているのか、未来は自分にもわからないのです。
・行動で、人生の意味を実現する
では、生きる意味を創るとは具体的にはどうすれば良いのでしょうか?
すべては、創造性を発揮し、 言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ 自分の存在において実現するかどうかにかかっている
重要なのは、行動によって生きる意味を実現することです。
現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいる(中略)すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっている
各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められている
人生は一人ひとり異なり、誰も代わることはできません。
人生が瞬間瞬間に出し続ける具体的な問いに、それぞれの人が行動で答え続ける。
それが生きることだとフランクルはします。
・苦悩する運命の中で、どう意味を実現するか
生きていく上では辛いこと、苦しいこと、嫌なこともたくさん起こります。
前向きな行動なんて起こせない時もある。
そんな時はどうしたら良いかについて、次のように言います。
さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるようか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできる
私たちは、活動すること、愛することだけでなく、苦悩することによっても人生を意味あるものにできます。
ゲーテの「なにかを行うこと、なにかを耐えることのどちらかで高められない事態はない」という言葉を引用し、行動で運命を変える。
それができなくても、進んで運命を引き受けることで、精神的な成長に昇華させられるのです。
どのように人生を意味あるものにするかにおいて、人は無限の自由を持っています。
人生はたえず、意味を実現するなんらかの可能性を提供しています。ですから、どんなときでも、生きる意味があるかどうかは、その人の自由選択にゆだねられています。人生は、「最後の息を引き取るときまで」意味のあるものに形づくることができる
生物学的、社会学的、心理学的な運命に対して、どのように反応するか、時に抵抗することも許される選択の自由があるのです。
・生き延びた人たちが抱いた3つの感情と自己実現
話は収容所から戻ってきた人々の心理に進みます。
生き延びた私たちは、私たちといっしょにそこにいたもっとも立派な人たちが、そこを出ることがなかったことがわかりすぎるほどわかっていた(中略)。ですから、私たちは、生き延びたことを、身にあまる恩寵としか考えられませんでした。私たちは、その恩寵に遅ればせながらもふさわしいものになり、すこしでもそれにあうようになる義務が、死んでいった仲間に対してあるように思われたのです。
実際に生き延びた人は3つの心情を持ちます。
1つ目は失望。中には「もう一度収容所に戻りたい」と憧れる人さえいます。
「いつかはまた幸せになれる」という希望がなくなった、
幸せになれるという可能性は、幸せではないという絶対的な確実性以上のもの
を失った結果、収容所から出て、ずっと会いたかった人に会えたなどの幸運に感謝する一方、それ以外何もできなくなる人もいました。
2つ目は、感謝。パンのほんの小さな一切れ、ベッドで寝ることができるという事実、点呼に立たなくてもいい、死の危険がたえずある中で生きていなくてもいいという状況などへの感謝を持ちます。
3つ目は勇気。さまざまな人がいる中で自分が生き残ったことに対する謙虚さと共に、「神以外はもうなにもおそれなくてもいい、神以外はもうなにもこわいと思えない」という勇気を持ちます。
また、収容所生活では欲に関して大きな変化が起こります。
立場、仕事、それまでの人生に関係なく人として扱われることのない生活の中で、名誉欲、権力、金銭欲、自己顕示欲などありとあらゆる個人的な欲が溶けてなくなり“無”になります。
その中で残るのは、本質的な「自己実現欲求」だけです。
・歌「それでも人生にイエスと言う」と決断について
この本のタイトルは収容所生活で作られた歌が元になっています。
ブーヘンヴァルト収容所の囚人たちが、彼らの作った歌の中で「それでも人生にイエスと言おう」と歌ったとき、それをただ歌っただけでなく、いろんな仕方で行ないに移しもしたのです。
フランクルの言う「内面的にも外面的にも口でいえないような条件の下」で、彼らはこの言葉通りの生き方を実践しました。
一つの可能性を選ぶというだけでもう、いわば他のすべての可能性に対して、存在しないという宣告を下すことになるのです。しかもそれらの可能性は「永遠に」存在しないことになる
人生は決断の連続です。そして、何かをするということは何かをしないという決断。瞬間ごとに自分の行動を選択し、他の可能性を無くすというのが生きることでもあるのです。
それでもすばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。私の決断によって実現したこと、さっきいったように私が日常の中で「起こした」ことは、私が救い出すことによって現実のものになり、つゆと消えてしまわずにすんだもの
自分の行動は全てに影響を与えます。どんな時も、自分の選択は、常に自分の人生に意味を与え、他人の人生、世界の全てに意味を与える可能性があるのです。
さて、あなたは明日から、どんな意味のある人生を創っていきますか?
実践ポイント
何となく違和感を感じたり、前向きになれないまま「そんなもん」「まあいいや」とうやむやにする、「なんとなく毎日つまらないなあ」「何かいいことが起こればいいのに」と思いながら妥協していることはありませんか?
「今より良い状況になったらいいな」と思うなら、一番簡単なのは自分で行動を起こすことです。
最初の一歩は「変える」と決断すること。
次に、自分が何に不満があるのか、それを変えるためにはどんなアクションが考えられるのか、そのアクションを起こすために必要なのは何か、いつ実行に移すのかを考える。
そして、行動に移しましょう。
大切なのは今、目の前に広がっている人生の問題、出来事に対して自分自身がどう反応するのか。
受動的に受け身にとらえるのではなく、能動的に「こうしよう」と決めることが大切です。
自分にとって素敵な意味のある毎日にすると、まずは決めてみてはいかがでしょうか?
感想・書評・学んだこと
初めて読むと、少し難しいと感じる人もいるかもしれませんが、人生で何度も読み返すのにふさわしいバイブルのような本だと私は思います。
だからこそ発売から日本語版の20年以上、今でも2022年3月現在のAmazonランキングで、ドイツのエッセー2位、死生観、西洋哲学入門でも10番台に入っています。
今の日本で生きていると、収容所での生活は想像するのも難しいと思います。
少々辛いこと、悲しいことはあっても、労働するためだけに生き、健康を害して労働できなくなったら殺されてしまうというのを実感することは、幸運なことにあまりないかもしれません。
ただ、だからこそ「何のために生きているのだろう?」「自分なんていてもいなくても変わらない」という漠然とした失望感、無力感に苛まれる人も少なくありません。
私は26歳の時、持病で2か月半入院しました。
それまで普通の人と同じように生活をしていたのに、なぜ自分だけがこうなってしまったのだろう。
床に落ちたスマホの充電コードを拾うのに30分かかり、コンセントが抜けていたら自力ではブラグを刺す力もなく、夢も希望も、思い描いていた将来像の全てが崩れていきました。
できることより圧倒的にできないことが増えた毎日で、ふと何かが変わった瞬間がありました。
それが、「英単語帳を開いて勉強しようとした」「病室から綺麗な朝日の写真が一枚撮れた」「ベッドに落ちた醤油の染みが、子猫の足跡のような形で可愛かった」「掃除に来てくれた方に笑って挨拶ができた」「薬を置くための箱を菓子箱から作った」など考えたことを行動に移すパワーがまだ自分にあると気づいた時です。
できないことだらけの毎日でも、心の充実度は100%になれることを知りました。
生きていると思ったようにいかないこと、なぜ自分だけこんな目に遭うのだろうと運命を呪いたくなることも起こります。
「それでも人生にイエスと言う」
人生がどんな意味を持つかは自分で決め、考え、時には行動し、時には進んで運命に身を委ねる。心の自由だけは誰にも奪えません。
ニーヴァーの祈りに「神よ。変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」というものがありますが、「それでも人生にイエスと言う」も強い祈りであり覚悟だと思います。
何が起こったとしても、「それでも人生にイエスと言おう」を合言葉に、まっすぐな心で、命に恥じない意味ある生き方をしたいものです。
最高の名言
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから間違っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。
素晴らしい意味ある人生の第一歩を、今この瞬間踏み出しましょう。